キーボーディストとしていくつかのバンドに参加したのち、1986年CHAGE & ASKAアルバム「Turning Point」で作詞家としてデビューし、数々のアーティストに詞を提供。
2022年より音楽ユニットJaka Ska Jan Gee、Toca Toca Blendの活動も開始。
日本音楽著作権協会正会員、通信作詞講座 Room 3076 運営、うたまっぷ作詞スクール教授、株式会社プリズムノート所属。
「どうして作詞家になったんですか?」と、よく聞かれます。
この「どうして」には、「なぜ」と「どうやって」という2つの意味が含まれているのだと思います。作詞家を目指している方の参考になるかどうかわかりませんが、「僕の場合」について紹介します。3行で書こうと思えば書けますが、ここでは略歴も兼ねて、作詞家になった長いいきさつを書きましょう。
音楽に関わる記憶をたどって行くと、4歳のときまでさかのぼります。ヤマハの音楽教室に通い始めたのが、幼稚園に入る前の年でした。もちろん自分の意志ではなく、母に連れられて通い始めたのです。よくわからないまま週1回ずつ2年間教室へ通い、指の練習をして、音階や和音を習い、2度の発表会に出て、2度目は大きなミスをして母に叱られました。
ところが、忘れもしないあれは幼稚園年長、6歳の春でした。近所に髪の長い女の子が引っ越して来て、同じ幼稚園に通うようになったのです。そしてその女の子がピアノを習っていたのです。綺麗な髪に誘われるように、僕もその女の子が習っている先生にピアノを習いたいと母に頼みましました。これが正式にクラシックピアノを習い始めた不純な動機だったのですが、まさかそれから15年も長い間習いつづけるとは思ってもいませんでした。毎日夕方1時間と決めていたピアノの練習はあまり好きではありませんでしたが、レッスンではその女の子に会えること、とてもいい先生だったこと(もちろん若い女の先生)、それとみんなの前で演奏できる年に1度の発表会が嬉しかったことが、長くつづいた理由でした。
中学生になると、それまで習っていた先生のさらに上の大先生のところに通うようになりましたが、一方でクラシックピアノ以外のいろいろな音楽も聴くようになりました。そういう年ごろだったのでしょう。昔、父が映画会社に勤めていたこともあり、家に映画音楽大全集というレコードがあったのです。これをまさに擦り切れるほど聴きまくりました。世の中にはいろいろな音楽があるんだなあと興味を持ったのと同時に、自分でも楽譜を買ってきて、ピアノで演奏してみるようになりました。そして興味はあらゆるポピュラー音楽へと広がっていきました。ラジオの音楽番組もチェックするようになりました。歌謡曲も覚えるようになりました。
高校生になるとギターを買って、当時流行っていたフォークソングやニューミュージック系のバンドを組み、しだいに自分でも詞や曲を作るようになりました。人前で歌ったり、演奏したりする喜びとこわさを知ったのもこのころです。中学から高校、大学まで進学できる学校だったため、当然受験勉強はなく、勉強もろくにせずに音楽三昧の日々を過ごしていました。
大学生になると音楽サークルに入部し、さらに音楽に対する思いは深くなっていきました。大学1年生まではギターを持ち、ボーカルも担当していたのですが、歌とギターの演奏に才能がないことに気づき、大学2年生からはキーボードに転向しました。元々ピアノを習っていたわけですから、当然こちらの方が近道でした。シンセサイザーのローンとスタジオ代とで、いつも貧乏でした。もちろん勉強はさらにおろそかになり、おかげで留年しました。親に対して申し訳ないという気持ちもあり、その年から大学を卒業するまで、横浜元町のレンタルレコード(当時はまだレコードでした)屋さんでアルバイトをしました。実はここで聴いた7千枚ものレコードと、録音した2千本ものカセットテープ(当時はまだカセットでした)が、僕の財産となっています。
このころ、すでにプロになりたいという強い願望を持っていた僕は、なかなか思い通りのメンバーにめぐり会えず、いくつものバンドを結成しては解散することを繰り返していました。ただ一人ずっと一緒にやっていたのは、中学生からの親友で、ヴォーカルを担当していたヤツだけでした。とてもつき合いのいいヤツで、僕と同じ年に留年していました。
ようやく大学3年生のころに納得できるメンバーがそろい、オリジナル曲をためて、都内でライブ活動を重ねていきました。一方でそのバンドとは別に、何か所からか歌謡曲のバックバンドのキーボーディストや、ロック系のバンドのキーボーディストとしてメンバーに誘われ、アルバイトを兼ねていろいろな経験をさせてもらいました。4、5人のお客さんしかいないライブハウスで演奏したり、デパートの屋上やスーパーマーケットの前で主婦と子供を相手に演奏したり、機材を車に詰めて徹夜で地方に行き、テレビ番組の撮影を済ませ、徹夜で帰ってきたり、当時は大変でしたが、いま思うといい思い出です。ずっと習ってきたピアノのレッスンに、忙しくて通えなくなったのはこのころでした。
自分たちのバンドは、それなりに認められ始め、コンテストで入賞したり、音楽事務所から声がかかるようになったりしていました。しかし、いつもいいところまで行くものの、今一歩のところでうまくいきません。プロになるためには、どうしてもそのバンドでなくてはならない強烈な個性がなくてはなりません。僕たちにはそれが欠けていました。
そうこうしているうちに、大学4年生の就職活動シーズンになってしまいました。就職せずに音楽活動を続けていこうという勇気も自信もないまま、バンドのメンバーはそれぞれにそれなりの就職先を決めました。決してプロになりたいという希望を捨てたわけではありません。就職してからだって活動できると考えていたのです。しかしそれが甘い考えであることはすぐにわかりました。
某メーカーに就職した僕は、神奈川県平塚市にある工場の会計課に配属されました。入社時は毎日工場で研修です。キーボードに触る時間もなく、夜は疲れて眠るだけ、休日もなかなかメンバー同士の予定が合わず、音楽から遠ざかっていく自分を感じていました。あんなに毎日毎日一緒にすごしたメンバーとはすれ違いが多くなり、バンドを続けていけるのだろうかという疑問が大きくなっていました。
みんなで音楽を続けることが難しいなら、とにかく一人でなにかを始めてみるしかない。きっかけさえつかめれば、またみんなでバンドができるかもしれない。そんなことを考えながら、ふらりと入った平塚駅ビルの本屋で、僕はある本を見つけました。「めざせヒットメーカー!」という名のその本には、作詞家、作曲家が自分の作品を売り込む先となるレコード会社や音楽出版社のディレクター一覧が載っていました。これだと思った僕は、すぐにその本を買い、その日から詞を書き始めました。本当は詞よりも曲が書きたかったのですが、詞ならば鉛筆と紙さえあればどこででも書けますし(当時まだワープロやましてパソコンは一般的ではありませんでした)、お金のかかる機材も必要ありません。そんな計算からとりあえず詞を書いてみようと決心したのです。いつも動機は不純なんです。
高校生の時からオリジナルを作って演奏をしていた僕は、当然詞も書いていましたが、人のために書こうと思ったことはありませんでした。自分たちのためにしか書いていませんでした。それは結局一番歌いやすい詞ということでした。別の言い方をすれば、いかに曲の邪魔をせずに聴けるかということでした。しかしこれではダメです。バンドとしてデビューできなかったのも個性に欠けていたからです。誰も書いていないオリジナリティーのあるものでなければなりません。本当に自分が書きたいことは多少抑えても、そんな視点で言葉を選び、1か月で10作品を書き上げました。特にタイトルにはこだわりました。そして、例の本に書かれていたディレクターに手紙を同封して郵送したのです。50ヶ所ほど送ったでしょうか。
それから3か月。どこからもなんの連絡も来ません。やはり実力不足なのでしょうか。とりあえずダメもとで、さらにあと50か所に郵送しました。
季節は夏になっていました。8月の暑い日。僕は会社のデスクでわけのわからない数字をにらみながら、自分でも驚くほど速く打てるようになった電卓と戦っていました。すると、夏休みで自宅にいた父から電話が入りました。ポニーキャニオンの羽島さんという方が電話をしてくれとのこと。羽島さんは田原俊彦のディレクターです。僕はあわてて公衆電話(もちろんまだ携帯電話はありませんでした)に走りました。電話に出た羽島さんは、優しい声でおっしゃいました。
「詞を読みました。一度会いたいんだけど」
その日のそれからのことはなにも覚えていません。たぶん仕事も手につかず、天国にいたのでしょう。
羽島さんと待ち合わせたのは六本木のカフェでした。どきどきしながら待っていた僕の前に現れたのは、いかにも業界人らしい羽島さんと、キャップとサングラスが妙な雰囲気をかもし出していたCHAGE&ASKAのディレクターをしていた山里さんという方でした。羽島さんが僕の詞を結構いいよと言って山里さんに渡すと、山里さんは封筒から全部出しもせず、パラパラとタイトルだけ見て、うんいいねとうなずきました。それからわけもわからず、飲みにつれていかれ、詞の話などまったくせずに、気がつくと3軒はしごをして、夜中の3時を回っていました。次の日、朝5時半に起きて仕事に行かなければならない僕は、なんの収穫もないままタクシーに飛び乗りました。おふたりはまだ飲み足りないらいしく、明るく、またねと手を振っていました。
音楽業界なんてこんなもんかな。僕は一体なんだったんだろう? そんな思いは日ごとに強くなりました。なんの音沙汰もない日が続き、あっという間に3か月が過ぎました。
季節は秋。11月のある日、その電話はまた突然かかりました。山里さんからでした。今度は僕の会社のデスクに直接です。
「この間の詞にCHAGEが曲つけて、いまレコーディング終わったから。今度のアルバムに入ることになったんだけど、今夜3人で会おうよ」
僕は宇宙の果てまで飛んでいきました。宇宙の果てがないのなら、イスカンダルくらいまでは飛びました。5時の終業ベルと同時に、平塚から待ち合わせの目黒まで走りました。実際に走っていたのは電車ですが、気持ちはずっと走っていました。
初めてお会いしたCHAGEさんは驚くほど気さくな方でした。できあがったテープを聴かせてもらい、それから自由が丘に飲みにいきました。こんなに近くに有名人がいて、しかも自分と酒を飲んでいるという事実が、あまりにも非現実的で、いったいなにを話したのかほとんど覚えていません。ただ、これから詞をたくさん頼むから、ワープロを買いなさいと言われたことだけを覚えています。
このときの曲が「キャンディー・ラヴになり過ぎて」です。それからしばらくして、立てつづけに3曲もらい、詞をつけて、レコーディングにも立ち会いました。そしてその翌年1986年の春に出た「TURNING POINT」というアルバムに4曲が入り、作詞家としてデビューしたのです。
それからは運良く、たくさんの依頼がきました。自分一人ではスケジュールを管理しきれず、作家事務所を紹介していただき、所属することになりました。
たくさんの出会いがあり、たくさんの方にお世話になり、たくさんの詞を書き、いくつかの曲も書き、3度事務所を移籍し(つまり4度目の事務所に所属しており)、最近はユニット活動もはじめ、現在に至ります。なんと、大学を卒業した時に就職した会社も辞めずに、ずっと二足の草鞋を履き続けているんです。