essay

さわやかなゲロ

 突然尾籠な話で申し訳ありません。お食事中の方、恋愛中の方、ここから先は読まないで下さい。

 さわやかなゲロを見たことがありますか?
 僕はあります。
 ほらー、だから読まないでって言ったでしょ。
 「ゲロ」とは、そう、あの、わかっちゃいるのに飲み過ぎちゃって、次の朝、
「あー、またやってしまったー」
 という懲りない反省と同時に、トイレに駆け込むやいなや、口から(時には鼻からも)逆流してくるあの半消化物のこと。
 もちろんゲロがさわやかなミントの香りであったわけでも、南の島で見る青い海のような美しい色であったわけでもない。

 その日(その日も)、僕は軽く飲み、シルバーメタリックにブルーのラインをほどこした愛車の京浜東北線に揺られて家路についた。夕方のラッシュアワーよりは遅く、飲みすぎたサラリーマンや、遊びすぎた若者たちが帰るにはまだ早い、ちょっと中途半端な時間帯だった。ちょうど電車に乗っている人が全員座れるくらいの空き方だ。
 僕はほろ酔い気分で、7人掛け椅子の一番端に座り、うつらうつらと夢と現実の間を彷徨っていた。はっきりとは覚えていないのだが、確か川崎駅あたりだったと思う。若い女性が二人乗ってきた。その二人は、一目ですぐにわかるほど酔っぱらっていた。しかも一人はほとんど正体不明となっており、もう一人に抱きかかえられるようにして、僕の向かい側の席に陣取った。
 さて、ここで話の都合上、二人に仮名をつけておこう。
 “人生どうにかなるさ、あしたはあしたの風が吹くもんね”ってな感じで、どんな時でも楽観的にポジティブに、声も度胸も大きい酔っぱらいの女性Aが花沢さん。
 “あー、会社はおもしろくないし、今日も上司に飲まされてしまった”ってな感じで、暗く反省しちゃってることにまた反省してる酔っぱらいの女性Bが野口さん。
 赤い顔をした花沢さんは、なぜかスポーツ新聞を3部も左手に握りしめ、青い顔をした野口さんを右手に抱きかかえていた。もちろん花沢さんは、ニコニコしながら、
「大丈夫大丈夫! 平気平気! 問題ない問題ない!」
 と、何度も繰り返している。
 しかし、全然大丈夫でも平気でも問題なくもなかった。かなり大丈夫じゃなくて平気ではない問題が起きたのだ。
「うっ! もぐもぐ!」
 と、今にも吐くぞーというなんとも無気味な音が、野口さんの喉元から漏れてきたのである。
 こんな時、冷淡な都会の人たちの車内での動きは素早い。花沢さんと野口さんから半径3mの危険地域から、0.5秒後にはサーっと誰もいなくなった。しかし、びみょーーーな距離に座っていた僕は、つい遅れをとってしまったのだ。
「やばい!」
 と、僕が思ったその矢先、それは現実となってしまった。
「噴射するぞ!」
 危険を察知した僕は、今度こそジャンプ一番、隣りの車両まで飛び移ろうか、体操の選手のようにつり皮をつり輪がわりにして、網棚に飛び移ろうか、それとも椅子の端にあるポールにしがみついて、蝉のふりをしようか、頭の中にいろんな映像を浮かべ、どれがスマートだろうかと0.3秒間考えをめぐらせた。
 ところがである。その時信じられないことが起きたのである。そんな僕の0.3秒間の思考をあざ笑うかのように、花沢さんは左手に握りしめていたスポーツ新聞の1部を取り出し、それを円錐状にまるめると、野口さんの口元にあてがったのである。その間わずか0.2秒。
「うっ、負けた!」
 なかなかやるではないか! おぬしただものではないな!
 しかも、花沢さんはニコニコしながら、
「大丈夫大丈夫! 平気平気! 問題ない問題ない!」
 と、繰り返しているではないか。
 くそー、なにヤツ! 手ごわい「くのいち」め! ひょ、ひょっとして、こんな事態になることを予測して、スポーツ新聞を3部も握りしめてきたというのかーっ!
「うーむ、できる!」
 しかし、新聞紙はやはり新聞紙であった。紙は濡れると当然弱くなる。いくら天下のスポーツ紙と言えども、しだいにその威力を弱め、残りの新聞紙を必死であてがってはみたものの、ポタリポタリとあの液体が漏れ始めたのである。僕の愛車の床には、新聞紙で濾過されて無着色状態になった液体が、子供が漏らしたおしっこのごとく広がった。
 野口さんは、気持ち悪いの半分、恥ずかしいの半分で、目を白黒させながらほとんどわけのわからないことをつぶやいている。もはやこれまでか!と思ったその時、僕は不思議な光景を見た。車内に居合わせた人たちから、ティッシュペーパーが差し出された。一つや二つではない。もうあちらこちらから、善意のティッシュペーパーが差し出されたのだ。
 中には完全に花沢さんの言動に恐れ入ってしまい、ずっとファンでしたと花束を差し出す人、結婚してほしいとラブレターを差し出す人、弟子にしてほしいと仁義をきる人までいて、もう車内は大変な状態になってしまった。と言うのは冗談にしても、たった10分かそこらで、多くの人たちの心をとりこにしてしまった花沢さん。あなたは一体何者なのだ?
 だが、しかし、ところが、これで話は終わらなかった。
 おもむろに花沢さんは、残りの新聞紙と善意のティッシュペーパーを両手に持ち、床を掃除し始めたのである。まるで自分の家の廊下を掃除するがごとく、両ひざを床につけ、四つん這いになって。
 そして、もちろんニコニコしながら、
「大丈夫大丈夫! 平気平気! 問題ない問題ない!」
 と、繰り返した。
 僕は友人のために、ここまでのことをしてあげられるだろうか? いやな顔一つせずにしてあげられるだろうか? 公共の乗り物を汚さない気持ちを、こんなに持っているだろうか? 当たり前のように汚した場所を綺麗にしているだろうか?
 きっと、そこに居合わせた誰もが、同じことを思っただろう。

 花沢さんと野口さんは、抱き合うようにして東神奈川駅で降りた。閉まるドアの向こうで、ゴミ箱に新聞紙を捨てながら、
「大丈夫大丈夫! 平気平気! 問題ない問題ない!」
 と、繰り返す花沢さんの声が、小さく聞こえた。
 あれは、何かが少しずつ狂い始めているこの世の中に、神様が送った使者だったのかもしれない。

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