essay

手の中のぬくもり

 その日は仕事に追われて、昼間都内を何か所もタクシーと電車で移動した。最後の打ち合わせ場所に向かうために東京駅でタクシーをおり、電車で最寄駅に着いたのは夕方の6時20分だった。
 念のため、携帯電話の留守電にメッセージが入っていないかどうか聞いておこう。僕は胸のポケットをさぐった。
 ん・・・? あれ? 携帯電話がない! 鞄に入れたのだろうか? ・・・ない! おかしい! ない! ない! どこにもない! そんなバカな。落ち着け! ゆっくり考えてみるんだ。どこかに忘れてきたのだろうか? 電車の中では・・・使ってない。その前のタクシーの中では・・・使った! 使ったあとどうしただろう? 記憶にない。ひょっとしたら、タクシーの座席に忘れてきたのだろうか? しかし、今となってはタクシー会社もわからない。どうしよう? 待てよ。そうだ。ダメもとで自分の携帯電話にかけてみようか。
 急いで公衆電話をさがし、祈るような思いで番号をプッシュした。呼び出し音が、1回、2回、3回、4回、5回。
「もしもし」
 出た! 出てくれた!
「あのー、えー、失礼でがー、そのー」
「あっ、さっきのお客さんですね」
 そうか、やっぱりタクシーに忘れてきたんだ。よかった! 止まっていた血液が、ようやく体の中を循環しはじめたような気がした。
 しかし、一体どうやって携帯電話を受け取ればいいのだろうか? そうか、タクシー会社に預けておいてもらって、明日にでも取りにいけばいいのだ。
 僕はそのことを運転手さんに説明した。しかし、受話器から予想もしていなかった答えが返ってきた。
「さっきお客さんがおりた東京駅まで持って行ってあげますよ」
 なんとありがたいことだろう。しかし、今から大事な仕事の打ち合わせがある。どうしたものだろうか? 再び血の気が引くのを感じながらも、回転の悪くなった頭で必死に考えた。打ち合わせに2時間、急いで電車に乗って東京駅まで20分。うーん、9時近くになってしまう。僕は正直に事情を説明した。
「・・・ですから、明日にでもそちらの会社まで取りにうかがいますので、タクシー会社を教えていただけますか?」
 ところが驚いたことに、さらに予想もしていなかった答えが返ってきた。
「それは大変でしょうから、9時頃東京駅の近くを走っているようにします。着いたらもう一度電話を下さい」
 なんて親切な方なんだろう。しかし、それに甘えてしまってよいのだろうか?
 今度はかなり血のめぐりが回復した頭で考えた。
「よろしいんでしょうか?」
 僕は結局その運転手さんのご好意に甘えた。

 打ち合わせが終わったのは、やはり8時半だった。急いで電車に飛び乗り、東京駅へ向かった。東京駅に着いたのが8時55分。公衆電話からまた自分の携帯電話の番号を押す。
「もしもし、遅くなりました。今、東京駅に着きました」
「丸の内側の中央郵便局の前に停まっています。オレンジ色のボディーの車ですから」
「わかりました。すぐ行きます」
 駅の構内の人波を抜け、丸の内南口の改札を走り抜けた。道をはさんで向かい側にある中央郵便局へ渡る横断歩道で信号待ちになった。あっ、いた! オレンジ色のタクシーが郵便局の前に停まっている。
 ああ、愛しい僕のケータイまであと少し。信号が青に変わると同時に、そのタクシーに向かってラストスパートした。
「すみません。遅くなりました。ありがとうございました!」
「いいえ、良かったですねえ、見つかって」
 夕方乗った時には気づかなかったが、よく見るとその運転手さんは、まだ20代前半くらいの若い方だった。純朴そうな瞳を車内灯が照らし出していた。僕は、3時間ぶりに帰ってきた携帯電話を握りしめた。
「本当にどうもありがとうございました。これほんの気持ちなんですけど、お茶でも飲んで下さい」
 かえって失礼かとも思ったが、僕は千円札を2枚、その運転手さんに差し出した。
「とんでもない! もっと別のことに使って下さい。それじゃ!」
 呆然と佇む僕の前から、オレンジ色のタクシーがあっという間に走り出し、颯爽と都会の夜の車の流れに消えていった。

 9時に東京駅付近を走っているためには、その前にお客さんを乗せることはできない。2時間半の間に遠距離のお客さんを乗せることもできない。きっと大変なご迷惑をおかけしたはずだ。にもかかわらず、まるで当然のことのように待っていてくれて、あっさりと姿を消したその運転手さんは、僕には映画に出てくるヒーローのように思えた。タクシー会社も運転手さんの名前も聞けなかった。お礼の手紙を書くこともできない。
 赤いテールランプが小さな点になって消えるまで、僕は深々と頭を下げていた。手の中で、戻って来た携帯電話のぬくもりを感じたような気がした。

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