どんなときでも、必ず1冊は本を持ち歩いている。なにか読むものがないと気持ちが落ち着かない。
決して文学青年だったわけではなく、学生の頃は1年に1冊読めばいい方だった。小学生のときには夏休みの読書感想文を書くためだけに、たった1冊の本を2か月近くかけて読むのが精一杯だった。
ようやく社会人になってから本のおもしろさがわかるようになったが、決して勉強熱心だったわけではない。おもしろそうだと思う本を買っては、映画やテレビを見るのと同じ感覚でただ楽しんできただけだ。それでも学校を卒業してから何十年もずっとコンスタントに本を読み続けてきたのかと思うと、今さらながら自分でもちょっと驚く。
本屋へは、読みたい本があるときもないときも週に何度か行く。読む本がなくなってしまい、あわててとりあえず1冊買いに行くこともあれば、目的もなく行って、何冊かまとめ買いすることもある。本屋とCDショップと電気屋なら1日中でもいられるし、日替わりで通ってもいい。
その日僕は読む本がなくなってしまい、すでに何度も読んでいる佐藤正午の「取り扱い注意」を鞄に入れて1日を過ごしていた。不思議なもので、何度読んでもそれはそれなりに新鮮に楽しめる。でも、できることならどこかで新しい本を買いたいと思いつつも、とある洋服屋で長袖Vネックの白いシャツを見ていると、ちょっとちょっとそこのお兄さんと言わんばかりに、その店のとなりにまさに名前のとおり「有隣堂」があった。お、やるじゃん有隣堂。で、さっそく探索。
ところが、どうもピンとこない。訴えかけてくる本がない。そうか、今日はだめか。
そう、本を選ぶのにも調子の善し悪しがある。そんなの僕だけなのだろうか。時間があまりないときはもちろん、なにか心に気になることが残っているときも、なんとなく集中できない。でもそれだけではない。自分のアンテナが低くなって、感覚が鈍っているときもそうだ。本のタイトルからなにも感じられなくなってしまう。
本を選ぶときだけでなく、CDを選ぶときも洋服を選ぶときも同じような気がする。そんなときはどうするか。さっさとあきらめて、うちに帰って酒を飲んで寝るに限る。
こういった現象、というか僕の特性を利用して、自分の調子がいいかどうかを調べるために本屋に行くことがある。それを知ったからどうだというわけではないが、あした書けば間に合う締め切りは、無理せずあしたにまわして、今日はゆっくりなにも考えずに横になってテレビでも見てバカ笑いしようかと割り切れるくらいの役には立つ。
ただここではっきり断っておくけど、たとえ今日は調子がいいかもしれないということがわかったとしても、あした書けば間に合う締め切りは、やっぱりあしたにまわすわけで、要は割り切ってあしたにするか、気にしながらあしたにするかという問題なんだけどね。