essay

だったり

 ここ1年ほどずっと気になっていた言葉・・・「だったり」。
 特にテレビでよく耳にする。テレビは影響力が大きいから、すぐにいろんな人が意識せずに真似して、あっと言う間に広まった。いろいろと気になる言葉はあるけれど、最近では圧倒的に気になる言葉だ。
 「夢だったり希望だったり・・・」。「夢とか希望とか」はまだわかるが、ひどいときには「夢だったりとか、希望だったりとか」なんて言う。
 本来であれば「夢や希望」でいい。「夢だったり希望だったり」って、なんかとってもいいことを言っているようだが、かなり違和感がある。なぜこんなことになってしまったのだろう。
 最初に誰かがよかれと思って使い、それを聞いた誰かがこれはいいと思ってまた使い、それがどんどん広まっていく。ということは、おかしいと思う日本語でも、もしかしたらそこにはなにかしら「いい」と思わせる「言葉の力」があるのだろうか。

 各駅停車が駅に停まって急行が通過していくのを待っているとき、「急行電車通過待ち合わせのため、当駅に5分停車します」とアナウンスされた。急行も停まるのであればいいが、通過していくのに「待ち合わせ」はおかしい。
 「急行の通過待ちのため当駅に5分停車します」と言えばいいのに、これも誰かが「待ち合わせ」というなんとなくわかりやすい力のある言葉を使い、それが一般化してしまったのだろうか。

 「あのひとは気の置けないひとだ」と言うのは、「気楽につきあえるひと」という意味か、それとも「油断のならないひと」という意味か。
 元々は「気楽につきあえるひと」だったのだが、最近は「油断のならないひと、信用の置けないひと」の意味にとるひとが増えているそうである。辞書でも「気が許せない、油断できない」の意味で用いるのは誤用と明記されているが、なかにはこの新しい解釈を一応載せながら「誤用に基づく」としているものもある。
 言葉は変化していくものであるが、「気楽につきあえるひと」とほめたつもりが、「油断のならないひと」と言ったことになってしまっては困る。であるから、そんな誤解を招かないために、僕はこの言葉を使わないようにしている。ほかにも言い方はいくらでもある。とは言え、ちょっとさびしい。

 「気分はいやが応にも盛り上がりました」とは、テレビの司会者。「弥(いや)が上にも」と言うべきところ、「否が応でも」とごちゃごちゃになってしまったのだろう。
 「例外にもれずどこも混んでます」にいたっては、例外だということになって、全く逆に意味になってしまう。「例外でなく」と言うべきところ、「ご多分にもれず」とごちゃごちゃになってしまったのだろう。

 さてさて、そんなこんなを否定するのか肯定するのか、それともなるようになるさと笑って時が経つのを待つのか。言葉を扱う作詞家の端くれとしては、悩むところだ。

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