ここ数年「前から失礼します」という言葉が気になって仕方がない。この言葉の不思議なところは、「横から失礼します」「後ろから失礼します」という使い方が同時にあるところだ。いやいや、夜の話じゃない。そう言えば昔、「後ろから前から」という歌があって、「後ろから前からどうぞ・・・」と畑中葉子が歌っていたっけ。畑中葉子は、あの平尾昌晃大先生と「カナダからの手紙」をデュエットしていたわけで、ちなみに「後ろから前から」は、あの荒木とよひさ大先生が、豊兵衛というペンネームで書いた詞で、いやいや、だからそういう話じゃない。
たとえば、テイクアウトのコーヒーを渡されたとき、レストランで注文した食べものが出てきたとき、会議で資料が配られたとき、よく耳にするのがこの言葉。前からじゃだめなんだろうか。横からならいいのだろうか? でも、横からの時も「横から失礼します」って言うし、じゃあ後ろからならいいのだろうか。でも後ろからでも「失礼します」っていうし、じゃあどこから渡すと失礼じゃないと思うのだろうか。ただ「失礼します」でいいのではないだろうか。そもそも、なにか失礼なことをしているのだろうか。「失礼します」という言葉さえいらないのではないだろうか。不思議だ。最近気になって仕方ない言葉の第3位。
以前、「〜だったり」や「〜だったりとか」の乱用が気になると書いたことがある。ところが驚いたことにこの言葉、さらに進化していた。
「この映画は、主人公の喜びであったりだとか、悲しみであったりだとかが・・・」「この試合は、気温であったりですとか、湿度であったりですとかとの戦いもあるわけでして・・・」など、特にテレビではこのような気になるフレーズを毎日のように耳にする。「〜とか、〜とか」がどんどんエスカレートして、、「〜だったり、〜だったり」、「〜だったりとか、〜だったりとか」、「〜であったり、〜であったり」「〜であったりとか、〜であったりとか」、「〜であったりだとか、〜であったりだとか」、「〜であったりですとか、〜であったりですとか」となっているように感じる。そもそも「〜や〜」で十分済む。「喜びや悲しみを・・・」、「気温や湿度と・・・」でいい。さらに、こういった使い方をする場合、「そばとかうどんとか・・・」というようにと同じで通常は2回繰り返さないといけないのに、「主人公の気持ちであったりだとかを、どう表現すればいいのかということを・・・」というように1回しか使わないという離れわざに接することも、よくある。「うどんやそばなどの麺類は・・・」は正しいが、「うどんなどの麺類は・・・」はだめという「など」の使い方と同じで、「うどんとかの麺類は・・・」では成立しない。最近気になって仕方ない言葉の第2位。
そして、最近気になって仕方ない言葉の燦然と輝く第1位が、料理番組で使われる「〜していきます」。
「それではキャベツを千切りにしていきます」、「この豚肉を強火で焼いていきます」、「茄子とピーマンを炒めていきます」など、すべての行為をING型で表現するこのパターン。しかもこのパターンの不思議なところは、テレビ番組のなかでも料理番組に限ることと、放送局の壁を越えて、どの料理番組でも使っているということだ。「キャベツを千切りにします」、「豚肉を強火で焼きます」、「ピーマンを炒めます」ではなぜだめなんだろう。これだけすべての料理番組で使われているのだから、これは意識的なのではないだろうか。もしかしたら、誰かが陰で操っているのかもしれない。「していきます」という言葉を広めなければならない理由があるに違いない。それにしてもなぜ料理番組なんだろう? ということは、料理界の大物がなにかからんでいるのだろうか? いやいや、そうじゃない。もしかしたら宇宙人の仕業かもしれない。実はこの言葉のなかに隠された意味があって、世界は徐々に洗脳されているんじゃないだろうか? あー、気になったら夜も眠れない。テレビ局の番組責任者に確認してみようか。決して文法上間違っているとは言えない使い方なだけに、余計気になって仕方ない言葉だ。